山も大好きだけど、じつは海も好きです。
水辺が好きなので
時々、波を待っています。
五感で波の気配を感じます。
ボードで待っていると
世界を見る目線が
いつもの頭の高さから
水面に降りていきます。
遠くを見晴らし
状況をつかもうとする視覚は
すっと奥に引っこんで
かわりに、皮膚や呼吸が前に出てきます。
そして、波に乗る、あの数秒
ボードを、海がぐうっと持ち上げる
気づいたら、もう乗っている
カラダが、勝手に乗ってくれている
アタマは、どこかへ引っこんでいる
意識化できない瞬間、とでも言うしかない。
けれど、その波が過ぎて、
ふっと「わたし」が戻ってくるとき
そこに残っているものは
はっきりしています。
ココロとカラダがつながった
静かで深い余韻です。
呼吸という、内なる波
セラピストとして
わたしはことばの育ちに関わってきました。
だから、つい、こんなことを考えます。
サーフィンのあの感覚は
もしかして
ことばの話でもあるのではないか。
ことばは、息からできています。
わたしたちは、息を吐きながら声を出します。
もう少し正確にいえば
肺から上がってくる空気に乗って
声を出しています。
そんな呼吸のことを、ふだん、
アタマは、いちいち命令していません。
眠っているあいだも
考えごとをしているあいだも
カラダが、勝手に吸って、吐いてくれている。
呼吸は、いってみれば、
わたしたちの内側で
ずっと寄せては返している
「内なる波」です。
そして、その波は
いつも同じカタチではありません。
うれしいと、息はうわずり
おびえると、息は詰まり
落ち着くと、息は深くなる。
カラダの感覚と、そのときの情緒で
内なる波は、絶えず、揺れ動いています。
同じ波が、二度と来ないように
同じ呼吸も、二度とは来ません。
その、揺れ動く波に
声を、そっと乗せていく。
うまく乗れた声は
「出そう」とした感じがしません。
波にカラダが持ち上げられるように
気づいたら、もう声になっている。
ふたつの、波乗り
ここで、はっきりしてきたことがあります。
声を出すことは、波乗りに似ている。
でも、その波乗りには
ふたつのやり方があるのです。
ひとつは、
意識下のカラダに「委ねた」波乗り
アタマが引っこんで
カラダが波と一体になって
気づいたら、声になっている。
もうひとつは、
アタマでコントロールする波乗り
板の上で、右へ、左へと、
重心を細かく計算するように、
ことばを、選び、組み立て、整えていく。
大人のわたしたちが
ふだん話していることばは
たいてい、こちらのほうです。
どちらも、波に乗っています。
呼吸という波に乗らなければ
そもそも、声は出ません。
ちがうのは、
委ねているか、操作しているか。
カラダに預けているか
アタマで乗りこなしているか。
それだけの、ちがいです。
オノマトペは、委ねた波乗りの声
「ぶーん」
「ぐるぐる」
「ぴょーん」
ものの音や、ようすを、
音のひびきで
そのまま写しとったことばたち
それが、オノマトペです。
子どもが、車や、水や、
自分のカラダと一体になって
思わず漏らす、あの声
これは、まちがいなく、
「委ねた」ほうの波乗りです。
「ぶーん」と言う子どもは
クルマを、外から眺めて
名づけているのではありません。
クルマの動きと自分のカラダが
ひとつになって
その一体感がそのまま声になって
漏れ出している。
まだ、子どもたちのアタマは
「わたし」と「クルマ」を分けていません。
そして、
波とカラダの境界がまだぼんやりしている。
だから、
オノマトペには
あの、波に乗っている数秒の
意識化できない感じが
そのまま宿っています。
一方で、
「車が走る」という言い方は
アタマで乗りこなした波乗りです。
「車」という名前でくくり、
「走る」という動きに整理する。
そこには、
それを眺めている「わたし」が
板の上に、はっきりと立っています。
同じ呼吸の波に乗りながら
子どもはカラダに委ねて、
大人はアタマで乗りこなす。
白状すると
わたしは乗りこなしが専門です
正直に書いておきます。
セラピストのわたしは
「アタマで乗りこなす波乗り」の
専門家にもなろうとしてきました。
子どもが漏らした
一回きりの「ぶーん」を
「この音は、出せている」
「この音は、まだ難しい」
そんなふうに、
くり返し確かめられる「型」に
仕分けしていく。
カラダに委ねられた、あの数秒を、
アタマのことばに、翻訳していく。
必要な仕事だと思っています。
そのような翻訳が
子どもを助けることもあります。
それでも、ときどき、思うのです。
アタマで乗りこなすほど
こぼれていくものがあるのではないか、と。
あの、「委ねた」ときにしか現れない
ぬれた声の手ざわりが。
日本語は
「委ねた波」を手放さなかった
大人のことばは、ふつう、
アタマで乗りこなすほうへ
どんどん進んでいきます。
ご存知のとおり、
日本語は
オノマトペが豊かなことばです。
雨は、しとしと、ざあざあ、ぽつぽつ。
歩き方は、てくてく、とぼとぼ、すたすた。
これらは、アタマで整理する前の
カラダに委ねた声のままです。
日本語は
この「委ねた波乗りの声」を
手放さずに、抱えてきた。
わたしは、それを
こんなふうに感じています。
アタマで世界を乗りこなして暮らしていても、
カラダに委ねたあの感覚とつながっている。
オノマトペは、その証しです。
ある子どもが
ひんぱんに「うにゅ〜」と言います。
文字にすれば
たった、これだけのセリフです。
でも、
実際の声の表情は、それぞれちがいます。
うれしいときの「うにゅ〜」
困ったときの「うにゅ〜」
賛成できないときの「うにゅ〜」
どうしようもないときの「うにゅ〜」
甘えたいときの「うにゅ〜」
イントネーションも、リズムも、
のばし方も、その一回ごとに、ぜんぶちがう。
二度とは来ない
一回きりの波乗りです
声は、本来、ナマモノです。
発せられた瞬間の
その一回にしか、いません。
でも、わたしは、それを
記録用紙に書きとめます。
「うにゅ〜」
……こうして文字にした声は、
もう、標本です。
きれいに台紙にとめられて
カタチは残っているけれど
波の気配は、すっかり消えている。
魂は、もう、そこにいません。
それでも、この標本づくりが
わたしの仕事のひとつです。
子どもたちの
一回きりの声に寄り添っては
せっせと、標本にしていく…
夜更けに
こんな標本たち(記録)を眺めていると
気づかないうちに
ソファに寝転がっています。
ココロとカラダに委ねて
ぼんやりとしているとわたしも
うにゅ〜
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