子育ての「答え合わせ」したくなるのが当たり前

大人

子育ての( 謎 )は、埋まらない?

「いちばんの理解者」という重圧

「お母さんが、お子さんのことを、
 いちばんわかってあげてくださいね」

園の先生や健診の担当者、ときには家族から
そう言われたことはないでしょうか。

たいていは善意です。

やわらかい声で言われます。
でも、そのやわらかさが、少し重い。

「いちばんの理解者でいてください」
そう言われると、なかなか重荷です。

私たちはつい、
「うちの子のことは
私がいちばんわかっています」
言いたくなります。

半分は、本当です。
でも、もう半分は……
正直に言うと、
そうでありたい、という願いなのかも。

さっきまで機嫌よく遊んでいた子が
靴下の向きが気に入らないという理由で、
突然、この世の終わりみたいに
床に崩れ落ちる(笑)

理由を聞いても、
「ちがう!」しか返ってこない。
何が違うのかは
本人にもわかっていないように見えます。

近い人ほど、わからない存在

でも、考えてみれば、
これは子どもに限った話ではありません。

私たちは、いちばん近くにいる人のことを
そんなによくわかっているでしょうか。

長く一緒に暮らす家族でも
「なんで、そこで怒るの!?」はなくなりません。
理由は最後までわからないまま、一日が終わる。

近くて大切な相手ほど
「わかるか、わからないか」
その物差しは、とっくに下ろしているものです。

よくわからないところがあっても、大切。
むしろ、よくわからないまま
一緒にいられる相手のことを、
「家族」とか「仲間」と呼ぶのかもしれません。

だとしたら、
いちばん近いはずの子どもに対してだけ、
「正しく理解しなくちゃ」と身構えるのは
少し不思議な話です。

「わかろうとすること」と
「そばにいること」の違い

もちろん、
子どもを理解しようとするのは
大切なことです。
知ろうとする大人の姿勢が
子どもを支えます。

でも、
理解しようと急ぐあまり
「この子はこういう子」
「この行動にはこういう理由」と、
答えを先に置いてしまうこともあります。

その答えは、ときに子どもとの距離をとって
「わかりやすい枠」の中に入れてしまいます。

子育ての「空欄」を埋めたくなる
私たちの欲求は消せない

私たちを焦らせるのは
おそらく
「きちんと言葉にできてこそ、理解」
という空気です。

まるで
子育ての問題用紙が配られていて、
( )に正しい言葉を入れなきゃ、
という気持ちになる。

この子が泣いている理由は、( )。
お友だちを叩いた理由は、( )。
集団に入れない理由は、( )。
親として、してあげるべきことは、( )。

けれど、その問題用紙、
いったい誰が配ったのでしょう?


正解を決める人も
採点する人も
じつはどこにもいません。

言語化を仕事にしている
セラピストの私が言うのも、なんですが。

子育てには
言葉では説明できない領域のほうが
ずっと広いように思います。

あえて訳せないものを
訳せないままに置く勇気

私の場合は
自分の仕事を「翻訳」だと思っています。

子どものなかにある
まだ言葉にならない気持ちを
大人に届く言葉に置き換える仕事です。

でも、
翻訳の作業では
どうしても忘れたくないことがあります。

「ここは、まだうまく訳せない」と
 正直に伝える勇気です。

たとえば、お友だちを叩いてしまった子。
「乱暴な子」と訳せば、話は簡単です。

でも、
言葉が出なくて手が先に動いたのかもしれない。
うらやましかったのかもしれない。
近づきたくて
方法がわからなかっただけかもしれない。

いくつかの可能性を並べたまま
すぐには答えを決めない。
その「決めずに置いておく」
そんな待つ時間を置く勇気も
子どもの側に立つには必要なのだと思います。

わかったふりで空欄を埋めた翻訳は
大人がつくった物語になってしまいます。

訳せないところは、訳せないまま。
「何だったんだろうね」と、
いっしょに首をかしげる。

それも、子どもを大切にする方法のひとつです。

わかっちゃいるけれど
「採点表」は、閉じられない

「いちばんの理解者でいなきゃ」と
肩に無理な力が入っている人は
少しだけ緩めてもいい……と
ここまで書いておいて、なんなんですが。

じつは、
「子育ての理想論」の押しつけが
いちばん親を追い詰めたりします。

想像してみてください(笑)

黒板の前に、眉毛のやたら濃い先生。
こちらをぎろりと見て、
白いチョークを投げつけながら、
こう怒鳴るのです。

「その採点表を、今すぐ閉じろッ!!」

 ──いや、無理! 閉じられません。

「それでは…」と登場するのが、
背中から後光のさした、もうひとりの先生。

「だいじょうぶ……🎶
   子育てに、落第なんてないのよ〜ルルル
     ぜんぶ加点なの……🎶」

 ──うわ〜。いやいや、やっぱり無理!!

頭では、わかっているんです。
でも、自分の子育ての時間だけ採点をやめる、
そんな器用なこと、そうそうできません。

じつは、( )を埋めたい、
いっそ問題用紙が欲しい、という気持ちは
親だけのものではありません。

だれの心にもある、ごく自然な衝動です。

白状すると、
セラピストの私にも、しっかりあります。
「正しく見立てる謎解きをしたい」
「もっときれいな言葉で余白を埋めたい」
そんな誘惑にまみれながら
毎日のように綱引きをしています。

しかも厄介なことに、
このような衝動は、消そうとするほど
かえって燃え広がります
……

「採点するな!」と自分に禁じるほど
採点表のことが、頭から離れなくなる。

だとしたら、
大事なのは、その気持ちを
消すことではないのかもしれません。

「あぁ、わたし、
 また( )を埋めたくなってるな」と
 少し離れて眺めてみること。

子どもの「わからなさ」に寄りそうのと
同じやさしさを、自分の焦りにも向けてみる。
そのくらいで、いいのだと思います。

わからないまま、ぼちぼち。

「わかること」も、大切にする。
でも、「わからないこと」を怖がりすぎない。
そのくらいが、
子どもと暮らしていくには
ちょうどいいのだと思います。

じつを言えば、
これを書いている私も
採点表は閉じられていません。
目の前の子のことも
半分くらいしか訳せていない気がします。

お母さんのための、ぼちぼち。
支援側の私たちのための、ぼちぼち。

今日も子育ては平常運転です。

今日もよくわからないです。

そしてぼちぼちの日々は続きます。

  

  

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