何も起きなかった一日を振り返る
幼児教育の現場では、
一日の終わりや支援のあとに、
お子さんの「記録」を書きます。
何をしたか。
どんな発言があったか。
何ができたか。
どのような関わりを行ったか。
仕事として残す記録には、出来事が必要です。
「なにか」を書かなければいけない。
振り返っても、何も思いつかないときの
職員の気持ちは、痛いほどわかります。
「いつも通りです(笑顔)」
「今日は特に何もありませんでした(…)」
「特記事項なし(キリッ)」
できれば、堂々としていたい。
けれど、やっぱり、
何かが足りないように感じます。
今日のお仕事に意味がなかった…
そのような気持ちになることもあります。
記録で作文をしたくなる誘惑
子育ての現場では、
日々、少しでも「成果」が求められます。
ことばが増えた。
友だちと遊べた。
活動に参加できた。
癇癪(かんしゃく)が減った。
目に見える変化を記録できると、
今日のお仕事に意味があったと思えます。
けれど、実際の現場では、
「何も起きなかったように見える」
そんな日もあります。
そんなとき、記録の作成中に
成果を創作したくなる誘惑があります。
「〇〇に変化が見られた」
「〇〇が伸びている」
「〇〇の芽生えが感じられた」
ウソではありません。
けれど、ほんの少しだけ
「もっともらしい物語」に整えてしまう。
そんな記録の書き方を
私は「作文」と呼んでいます。
新人セラピスト時代の私も、そうでした。
空白のまま差し出すことが、不安なのです。
なかなか成長が見えにくい子育てのなかで、
何かを見つけなければと苦しくなる。
ぼんやりと隣りに座っていた時間の価値
ある日、
その子は、窓の外を長く眺めていました。
私もそっと隣りに座ります。
私から声かけはしません。
外では、木の枝が揺れています。
遠くを、車が通ります。
ときどき、鳥の声が聞こえます。
子どもは何も話しません。
私も何も教えません。
しばらくすると、
子どもは窓ガラスに指を当てました。
指の先で、何かをゆっくり追っています。
小さな虫が、ガラスの外側を歩いていました。
「いたね」
わたしが独り言のようにつぶやくと
その子は無言です。
ただ、それだけの時間です。
虫の名前を覚えたわけではありません。
発音の練習をしたわけでも、
なにかの課題を達成したわけでもない。
記録に残せることは、ほとんどありません。
この時間を、どう記録しよう。
お母さんの笑顔につながるだろうか。
少しだけ、胸がざわつきます。
「何者にもならなくてよい」時間を
「価値のある記録」にすることは難しい
子どもは毎日、
たくさんのことを求められています。
起きる。着替える。食べる。
移動する。座る。聞く。答える。
片づける。
大人の生活を学ぶために、
次々と行動しなければなりません。
大人は子どもの成長を願っています。
だからこそ、いつも働きかけます。
「今日は何ができるようになったのか」
そんな目で見つめられていることを、
子どもはしっかり感じています。
セラピストとして経験を積むうちに、
「何者にもならなくてよい時間」を
子どもは必要としていることに気づきました。
話さなくてよい。
正しく答えなくてよい。
楽しそうな顔をしなくてよい。
ただ、世界の外を見ていてよい。
じつは、
大人に見つめられている子どもたちにとって
大人が想像している以上に
そんな時間は少ないのかもしれません。
子どもは、鋭いです。
急かされなかったこと。
答えを求められなかったこと。
そのままで隣りにいてもらえたこと。
その体験は、身体のどこかに残ります。
そこから信頼と意欲のようなものが生まれる。
(そんな気がするのです)
けれど、そんな時間は偶発的に生じます。
大人が意図的に生み出すことは難しい。
計画的に実行すると、子どもは見抜きます。
まして、
「何者にもならなくて良い」
そんな偶発的な時間について
「価値ある記録」に残すことは難しい。
支援者が自分の内なる衝動と向き合う
一般的に見れば、
「何も起きない時間」に耐えることは、
支援する側にとって簡単ではありません。
仕事をしていないように感じる。
専門性を発揮していないように感じる。
もっと良い声かけがあるのではないか。
この時間をもっと有効に
使わなければならないのではないか。
そんな不安が湧いてきます。
新人セラピスト時代の私も、
無意味に見える「沈黙」を埋めるために、
おもちゃを出し、質問を重ね、
活動を子どもに提案してきました。
子どものためというよりも、
「自分が何かをしている」と安心するために。
専門家は、ときどき、
「何かを起こす人」だと期待されます。
変化を引き出す。
課題を見つける。
方法を示す。
けれど、正確に言うならば、
「何も起きていない時間」は存在しません。
沈黙や空白に見える時間にも、
子どもの内側では、何かが動いています。
だから、
窓の外を見ている子どもに対して
こちらの目的を持ち込まない。
まだ名前のない時間を、
名前のないまま置いておく。
つい大人の私たちは「名前」をつけて、
その価値を確かめたくなります。
そんな私たち自身の内なる衝動を見つめながら
子どもたちの「記録」を残すためには
大人の側に、意外なほど、強い心が必要です。
あの日にあったことの価値を書く
夕方の帰り際、その子は靴を履きました。
玄関を出る直前、こちらを見て言いました。
「虫、まだいるかな?」
今日の午前中のささやかな出来事は、
その子のなかに残っていました。
いや、その表現は少し違うのかもしれません。
「ずっと続いている」のです(たぶん)
大人のわたしが、
あの時間は「終わったこと」なのだと
勝手に閉じていただけです。
一緒に虫を見たこと。
わたしが隣りにいたこと。
急かされなかったこと。
それらは、
まだ言葉で閉じられないままに、
その子のなかでずっと続いているのです。
共同注意?
実行機能?
質問応答?
愛着形成?
自己肯定感?
私たちは、後から、そんな名前で
その出来事に価値をつけるのかもしれません。
けれど、あの日、
その場にあったものは、ささやかで
言葉で説明しにくい体験だと思います。
このような体験については
専門的な言葉がもつ強い光をあてると
大切なものが見えなくなってしまいそう。
だから、その日の記録として、
たとえば忙しい保育職員であれば
「窓辺で虫を指で追った。
帰り際に『まだいるかな』と話した」
コレしか書けないかもしれません。
けれど、
そのごく短い文章の記録の中には
不安まかせの「作文」はありません。
名文となる気配すらありません(笑)
だからこそ、
そんな短い文章でつづられた記録は、
子どもを大人の解釈で押さえこまず、
大人の言葉による物語で閉じることもない。
子どもの世界を生き生きと保ったままです。
今日も、よくわからないままです。
でも、決めつけずに近くにいますね。
そして、子育ての日々は続きます。
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