「うちの子は、反発ばかりです」
面談の冒頭、お母さんはそう言いました。
「いつも反抗してばかりで…
癇癪(かんしゃく)も、多すぎると思うんです」
きっと、たくさん調べてこられたのでしょう。
「癇癪 対応」
「癇癪 発達」
検索窓に入れた言葉の数だけ記事を読み、
それでも子どもは、思うようには変わらない。
そして、その瞬間。
私の頭の中でも、一つの答えが立ち上がります。
――その反発は、
この子の「自我」が健全に働いている証拠ですよ。
私はそのような話を記事にも書いていますし、
面談でも何度も口にしてきました。
言えば、お母さんは少し楽になった。
しかも、たぶん正しい。
でも、その日は言えませんでした。
面談でつくられる「優しい物語」
面談は協働的な作業です。
お母さんがこれまでに起きたことを話し、
私が発達の見通しを足す。
二人で一つの説明を組み立てます。
私はこの作業が得意です。
バラバラだったエピソードが整理され、
お母さんは納得して帰っていく。
悪い時間ではありません。
「言葉のチカラ」に救われることは、多い。
例えば
「この子は、反抗する子です」が、
「この子は、自我が強く育っている子です」に
価値が置き換わる。
後者の意味づけのほうが、ずっと優しい。
それでも、
この子を「説明し終える」言葉ではあります。
言葉は、サーチライトに似ています。
暗闇に光を当て、そこに何があるのかを、
眩しいくらいの解像度で見せてくれる。
けれど、光が強いほど、
その周りは見えにくくなります。
物語とは、出来事をわかりやすくする一方で、
何かを見えなくする効果もあります。
これは
「言語化をやめよう」という話ではありません。
そんなことを言い出したら、私は失業します。
問題は、言葉そのものではなく、
言葉は早くまとめすぎることです。
そして、まとめた言葉を、
いくつもある見方の一つではなく、
「現実そのものだ」と思ってしまうことです。
わかりやすい説明の周りには、
いつも説明できない何かが残ります。
小さな違和感の存在。
まだ名前を持たない感覚の気配。
それでも「いつもの物語」は、
謎の空白をすばやく埋めます。
だから安心する。
同時に、その物語から出られなくなる。
私の動きが、止まった
その日の面談場面では、
私はいつものように答えを話し始める直前に
自分の中で起きている変化に気づきました。
あ、いま、物語が、立ち上がってきている。
そこで、ふと、私は黙ってしまいました。
なぜ止まったのか、私もうまく説明できません。
正直に書くと、その時は、焦りました。
あえて「傾聴の時間」ということにして、
専門性を保てばいいのかなと思ったくらいです。
いつものように物語をここで完成させることに、
身体のどこかが小さく抵抗していました。
物語になる前の現在へ
お母さんも、私を急かしません。
何かを言おうとして、やめる。
また話し始めて、言葉を探す。
お互いに、おだやかな沈黙の中で、過ごしました。
会話をつなぐための言葉が途切れると、
声の高さや呼吸、バッグを握る手つきが、
それまでよりはっきり感じられました。
お母さまの姿勢、呼吸、話すリズムに、
こちらも合わせていく。
すると、
お母さんがお子さんとの日々の中で抱えてきた、
さまざまな重みが、説明ではなく、
感覚として少しずつ伝わってくるようでした。
五感に戻るとは、森へ行くことでも、
あいまいさの中へ逃げこむことでもありません。
物語が立ち上がる前の「いま、ここ」へ、戻る
「反抗ばかり」という言葉も、
「自我の育ち」という言葉も、
出来事をまとめるための物語です。
前者はお母さんの中に、
後者は私の中に立ち上がった。
どちらも間違いとは限りません。
ただ、それだけが、
この子のすべてではありません。
一方で、
五感は、言葉が生まれる前から動いています。
もちろん、
感覚は、わかりやすい答えを出しません。
ただ、
一つの物語で出来事を閉じてしまいそうなとき、
小さな違和感を残してくれることがあります。
物語が閉じなかった一時間の価値
結局、具体的な解決策を一つも渡しませんでした。
途中から、お母さんの表情が変わっていきました。
頬に血色が戻り、声にも張りが出てきたようです。
そして
「ありがとうございます。すごく良かったです。
また来ます」と、笑顔で帰られました。
なぜ、答えを渡さない一時間になったのか?
私には確かなことは言えません
もちろん「沈黙」は最善の方法ではありません。
黙ることで見捨てられたと感じる人もいます。
言葉での説明だからこそ安心する人もいます。
「黙ればよい」を正解にした瞬間、
私たちはまた、別の物語をつくり始めてしまう。
たぶん、あの日、
お子さんのことは説明され終わっていなかった。
面談が終わっても、物語が閉じていなかった。
そのことが、
お母さんの中で、必要としていた
余白をつくったのかもしれません。
意味と物語が立ち上がる気配を
そっと感じてみる
そもそも、私たち大人は、絶えず
意味づけをやめることはできません。
大人の頭は放っておいても、意味をつくります。
けれど、
意味が完成して物語になるまでのプロセスを、
身体の感覚を使って
少しだけ引き延ばすことはできる。
いま、子どもを見ている私の中では、
どんな物語が立ちあがろうとしているのか。
その本能的で反射的な立ち上がりの瞬間を
身体の感覚でつかむことができるならば。
「いつもの私の物語」から
ほんの少しだけ、
はぐれられるのかもしれません。
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