「発達検査」と「日常生活」のあいだを見つめる

大人

数字の魔力に圧倒される私たち

検査結果の用紙を、机の上で、
お母さんのほうへ向けました。

項目ごとの説明文を、指さしながら
ひとつずつ説明していく。

途中で気づきました。

お母さんの視線が、わたしの指先ではなく
紙の上に並んだ数字そのものに落ちている。

わたしの声はまだ続いていたけれど、
たぶん、もう届いていません。

そして、顔を上げないまま、こう言ったのです。

「もう少し良い数字だと思っていましたが、
 もう、ダメなのでしょうか」

その数字に、心がざわつく

この気持ち、痛いほどわかります。

我が子のことを、こんなにも毎日みているのに。

誰よりも知っているつもりなのに。

よその大人が
一時間ほど関わっただけで、出てきた数字が、
突然、わたしより我が子を語りはじめる。

しかも、その数字が、
なんだか思っていたのとは、違う。

——これはもう、
ざわつかないほうが、どうかしています。

親であれば、
我が子を「数字」で語られることへの抵抗は
当たり前なのです。

その想いは、なにひとつ、間違っていません。

まるで「洞窟の探検」のような世界

ここで、少しだけ、たとえ話をさせてください。

子どものことを深く理解しようとする営みは、
どこか、「暗くて神秘的な洞窟」を
そろりそろりと探検することに似ています。

子どものなかには
まだ誰も光を当てていない広い空間が
いくつも眠っている。

そこで、
わたしたちは、いろんな道具を持って
その洞窟に入っていくのです。

発達検査は、強力なサーチライト

そのための道具のひとつが、「発達検査」です。

発達検査とは
子どもの世界を理解するための探検にとって
とても価値のある道具です。

セラピストとして、はっきりとそう言えます。

毎日そばにいると
かえって見えなくなるモノやコトがあります。

たとえば、
「なんとなく、ことばが気になるな」
——その”なんとなく”に、輪郭を与えてくれる。

検査結果の数字は
ほかの子と比べられるかたちで
暗がりのなかにあったモノやコトを
クリアに照らし出してくれる。

その意味で、
発達検査はいわば強力な「サーチライト」です。

暗い洞窟のなかで
その一帯を、明るく照らしてくれる。

これはもう、圧倒的にありがたい道具です。

強い光は、まわりを暗くする

ただし、
サーチライトには、困った性質もあります。

強く照らせば照らすほど
その外側が、よけいに暗く見えなくなる。

これは
サーチライトが悪いのではありません。
光とはそういうものです。

検査結果を受け取ったあとで
こんなことがよく起こります。

昨日まで
「よく笑う子」だったはずなのに
数字を知った瞬間から、
その笑顔まで
「発達段階の説明」に見えてきてしまう。

照らされた数字が強すぎて
数字以外の、我が子の姿が
すっと暗がりに沈む。

冒頭のお母さんの視線が、
わたしの指先ではなく
数字に吸い込まれていったのも、
たぶんこれです。

発達検査の数値は
まぶしいほどに強かった。
だから、
そのまぶしさで周りが見えなくなった。

だから、暗がりで採集していく

では、サーチライトのまぶしい光で
暗がりに沈んでしまったモノやコトは、
どうすればいいのか。

…拾いにいくのです。
日常生活のなかで、ひとつずつ。

たとえば
何を、何度も繰り返すのか?
何を、いやがるのか?
どんなときに、急にスイッチが入るのか?

ここで、大切なコツがあります。

拾った瞬間に、すぐに判断しないこと。
まずは、「素材」のまま、集めておく。

この子は、よく見ているなあ…
この子は、同じことを何度も確かめるなあ…

検査が子どもを説明してくれる道具ならば、
日常の採集は、まだ説明にならないものを
そっと手元に集めていく営みです。

「サーチライト」と、「採集」
「照らす」と、「拾う」

これは、
どちらが正しいかを競う話ではありません。

こう書いているわたしも、
さまざまなお子さんの検査結果を前にすると、
時として、言葉に詰まります。

「大丈夫」と励ますことは、簡単です。

でも、
その一言で晴れるほど、
保護者の不安は、軽くない。

だから、
わたしは、安易に励ますことを、
いったんあきらめました。

その代わりに、
検査の結果は手放さず、
しゃがんで、
一緒に拾うことにしたのです。

分けたくなる、その気持ち

発達検査と日常生活を
分けて考えたくなる気持ちは
よくわかります。

「検査ではこうだった。
 でも、家ではぜんぜん違う」

「こんな数字より、
 毎日みている親のほうがわかっている」

あるいは、その反対に。

「親の理想より、
 客観的な検査のほうが正しいはず」

つい、どちらかに寄りたくなる。

どちらかを、本当の姿に決めたくなる。

でも、
そもそも、競わせる必要はない。

だって、
使っている道具も、見ている場所も
まるで違うのですから。

サーチライトで照らした一帯と、
しゃがんで拾い集めた、その陰となった気配。

そのどちらもが、
我が子という洞窟の、本当の一部です。

検査の光が照らした「見通し」を持って、
日常をもう一度眺めてみる。

日常で拾った「素材」を持ち出して、
検査結果をもう一度読み直してみる。

その往復のなかで、
子どもの姿が、少しずつ
立体に起き上がってきます。

光と陰のその先へ

発達検査の光を、消す必要はありません。

でも、光が届いている場所だけが
子どもという洞窟のすべてでもないのです。

足元の暗がりにある気配を、拾ってみる。

そして、その拾ったものに、
もう一度、光を当ててみる。

子どもは、わからないことだらけです。

わからないことだらけの我が子を、
ああでもない、こうでもないと面白がりながら、
光と陰のなかを探検していきましょう。

わたしたちが、
探検のための道具として認めるならば。

発達検査、日常生活での採集、
どちらの道具も、
心づよい相棒になってくれるはずです。

きっと、このような探検のセンスが、
子育てを支えてくれると信じています。

  

  

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