子どもの豊かな「勘違い」&「夢中」のパワー

子ども

かわいくて、壮大な、勘違い

二歳の子どもが、園のドアを叩いています。

その日は、ご家庭の用事があり、
いつもよりずいぶん早く
親子で園に到着してしまったようです。

まだ、職員は誰も出勤していません。

玄関の向こうは暗く
園内はしんと静まり返っています。

けれど、その子は少しも困っていません。

小さな手のひらで、
閉まったドアを何度も叩いています。

「みんな、起きて〜!」

お母さんは、止めません。

いつもの我が子の姿なのでしょう(笑)

急かすでもなく、恥ずかしがるでもなく
少し離れたところから静かに見守っています。

私は、たまたま親子の後ろを歩いていて
離れた場所から、その様子を眺めています。

なんて、かわいいのだろう。

先生たちは、まだ園の中で眠っている。
だから、ドアを叩いて起こせばいい。

その子は、そう思っているのでしょう。

もちろん、先生たちは、
園の中で暮らしているわけではありません。

朝、それぞれの家を出て
電車や車や自転車で園にやってきます。
仕事を終えれば、それぞれの家に帰ります。

けれど、その子は
先生が出勤する姿を見たことがありません。

園へ来れば、先生がいる。
帰るときにも、先生がいる。
次の日に園へ来ると、また先生がいる。

その子が見てきた世界で、忠実に考えるなら
先生たちは園の中で暮らしています。

もちろん、事実とは違います。
けれど、その子の経験の中では、正しい。

幼児期の子どもたちは
世界を雑に見ているわけではありません。

むしろ、
自分が見たもの、聞いたもの、触れたものに
とても忠実なのだと思います。

見ていない通勤風景は、世界に存在しない。

その代わりに、
先生の声や、玄関のドアや、いつもの椅子は
驚くほどくっきりと存在しています。

園のすべてに恋している💖

その子は、園が大好きです。
先生たちが大好きです。
園庭も、廊下も、椅子も、部屋の匂いも
みんな好きなのだと思います。

園のすべてに恋して夢中の日々。

大好きなヒトとモノたちがいる場所へ
少しでも早く近づきたい。

早くドアを開けてほしい。

「みんな、起きて〜!」

その声には、
世界を震わせて、起動させようとするような
底知れぬパワーがみなぎっています。


子どもたちにとって、
「園が好き」という気持ちは
一つのまとまった概念ではないのでしょう。

先生の笑い声
ドアを押したときの重さ
床を走る足音
窓から入ってくる光
手を伸ばせば届く棚
いつも座る小さな椅子

そうした一つひとつが
ばらばらのまま、強い輝きを持っています。

それらの存在感は、
「園」という箱の中に整理されて
おとなしく収まっているわけではありません。

一つひとつが、それぞれの場所から
「ここにいるよ」
「わたしを見て」
それぞれが、存在を主張しています。

私たち大人と安心の箱

大人は、目の前のものを見ると
その意味を知ろうとします。

これは、何だろう。
なぜ、こうなるのだろう。
どのような仕組みで動いているのだろう。

見て、分析し、理解する。

一つひとつの情報をつなぎ合わせて
「体系という箱」に入れることで安心して
この世界を扱いやすくしていきます。

園は、子どもを預かり、教育や保育を行う施設。
先生は、園に雇用されて働く職員。

名前がつき、役割がわかると
物事のつながりが見えてくる。

そのおかげで、大人は
複雑な社会を生きていくことができます。

けれど、そんな「体系の箱」へ入れた瞬間に
見えにくくなるものもあります。

先生の声は、ただの「職員の声」
ドアは、ただの「施設の入り口」
椅子は、ただの「園の設備」になります。

世界はわかりやすくなる。
でも、少しだけ平らになります。

夢中になると、その箱がはじける

ところが、
何かに夢中になったときには
大人の見方にも、変化が起こります。

声のかすかな揺れ
振り向いた瞬間の表情
何気なく使っているコップ
写真の奥に写り込んだ、小さなもの

いつもなら、
一つの箱に収めているディテールが
そこから飛び出してきます。

意味を説明するための材料ではなく
その小さなもの自体が気になってしまう。

何度も見たい
声を聞きたい
近くへ行きたい

そこにあることを、何度も確かめたい。

恋をしているとき
何かに夢中になっているとき
どうしようもなく心を引かれているとき

私たち大人は、
「世界をきれいに統合すること」を
少しだけ、手放します。

それは、壮大な、勘違いの世界の入り口です。

安定しているはずだった世界が…
一気に、わちゃわちゃしてくる。


この世界をわかりやすく構成するために、
パーツの役割をおとなしく演じてきた
さまざまなディテールの断片たちが、
部品としての役割を放棄して
体系の箱に入れられることを拒み始める。

小さなものたちが、ありのままに、
こちらへ向かって存在を主張し始める。

それは…
大人が、幼児の日常世界に入ることであり、
とてもすてきなカオスだと思います(笑)

理解したい、ではなく、触れたい

ふだんの大人は、世界を理解しようとします。

けれど、
何かに強く心を動かされたとき
見ることの行き先が変わります。

「理解したい」ではなく
「触れたい」という衝動に変わる。

ここでいう「触れる」とは
手で直接触ることだけではありません。

五感のすべてを使って
その存在との距離を縮めたい。

その存在に寄り添っていたいと願う。

なにかに夢中になるとき、
私たち大人も「理解する」モードから
「触れたい」モードにスイッチが切り替わります。

「みんな、起きて〜」

その子は、あきらめずに、繰り返し
閉まった園のドアを何度も叩いています。

重たいドアを叩き
大好きな人たちに声を届けようとしている。

「いないのかも…」という洞察を
ねじ伏せていくようなエネルギーです。

決して、あきらめない声

ドアの向こうにある世界へ
なんとしても届けようとしている。

子どもたちは、
世界に恋をしたり夢中になることや、
なんとか触れようと進撃することの価値を
カラダでよく知っています。

大人も、何かに夢中になったときには
その手は、理解よりも先に、伸びていく。

恋と夢中から生まれる、壮大な勘違いにこそ、
この世界を震わせる声と
この世界を起動させるパワーがあります。

わちゃわちゃしたカオスのなかで生じる
「勘違い」の熱量こそが、世界を動かす。

私たち大人も、いつもの世界からはぐれたら、
幼児の世界と同じなのかもしれません。

恋せよ、幼児
はぐれろ、私たち

   


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