事件が起きました
子どもが滑り台の上から飛び降りました。
滑るところを下りたのではありません。
いちばん高い場所に立ち、
そのまま地面へ跳んだのです。
周囲にいた職員が、慌てて駆け寄ります。
子どもは地面に倒れ込み、
驚いたような顔をしています。
身体の状態を確かめると、幸い、
大きな怪我にはなっていません。
園内で状況を共有し、保護者にも連絡します。
「見守りをしっかりしてください」
保護者のお怒りはよくわかります。
子どもたちは、想定外の行動で
ときどき大人の心臓を縮ませます。
なぜ、そこへ登るのか。
なぜ、そこから跳ぶのか。
どうして、よりによって今なのか。
大人の予想から、
少し外れた場所とタイミングで、
突然、身体を動かします。
ひと通りの対応が終わったあとも、
私には一つ、気になることが残りました。
その子は、なぜ、跳んだのか。
「変身したかった」
職員さんがその子に訊きます。
「どうして、あんなことをしたの?」
子どもは黙っています。
もう一度聞くと、小さな声で答えました。
「変身する」
職員さんはあきれた顔をしました。
「でも、危ないでしょ」
「どうなるか、わかるよね?」
子どもは、また黙り込みます。
幼くて、危険がわからなかった。
ヒーロー番組の主人公になりきっていた。
興奮して、身体が先に動いた。
その先に何が起きるのか、
まだ十分に予測できなかった。
そのように説明すれば、話は簡単です。
けれど、その子は
「変身したかった」と言ったのです。
今回の対応が落ち着いたあとで
私は子どものそばに座りました。
その子に反省を促すことよりも
その子を理解したいのです。
「危ない」
「跳ぶ」
「変身」
「高い」
「痛い」
「危ない」
「変身」
短い言葉が、ぽつり、ぽつりと
繰り返し、出てきます。
そんな言葉の断片を聞きながら
私は考えます。
その様子から伝わってくるのは
「痛かった」ではない。
「なぜ変身できないのか?」という
謎と向き合う疑問の表現なのです。
その子にとって、「変身」とは、
どういう意味なんだろうか……
あえて先生の役割から少しだけはぐれて、
ぼんやりと考えてみます。
その子のふだんの遊びの様子が浮かびます。
悪者の役割を設定してやっつけるような
ヒーローに憧れるタイプではない。
「闘いごっこ」が大好きなタイプでもない。
きっと知識系の教養番組と同じように
TVのヒーロー番組を見ているはず。
子どもの視点に立って
ヒーロー番組の構造を考える。
「行動」➡︎「危険の発生」➡︎「変身」
変身とは
日常世界から非日常に切り替わり、
緊張感あふれる躍動の世界になる儀式。
その子が生きている世界において、
変身するという儀式を実現させるには
危ない行為と直面する必要がある。
敵と悪役が存在しない日常世界において
危ない行為とは、
自分を肉体的な危険にさらすこと。
そして「変身する」ことは
ぼんやりとしていた日常の世界を、
鮮明に立ち上げることなのではないか。
幼児期のその子ならではの
探究心と実験精神なのかも。
だから
女性保育士さんたちに叱られたことよりも
「なぜ変身できなかったのか……?」
その疑念のほうが強いのかもしれません。
中心では、世界がぼやけている
いつもの園庭は、安全です。
地面は平らで、遊具の使い方も決まっています。
大人の目が届き、いつもの友だちがいて、
一日の流れもおおよそ決まっています。
朝になると園へ行く。
遊び、呼ばれ、片づける。
時間になると、次の場所へ移る。
出来事は次々と流れていく。
ところが、
滑り台のいちばん高い場所へ立つと、
世界は変わります。
地面が遠い。
風が顔に当たる。
足の裏に力が入る。
少し身体を前へ傾ければ、
もう後戻りできない。
上と下。
跳ぶ前と、跳んだあと。
安全な場所と、その外側。
それまで曖昧だった境目が、
急にはっきり感じられます。
滑り台の上は、
いつもの園庭のなかにありながら、
日常の中心から少し外れた場所です。
世界の縁です。
子どもは、縁へ向かう
子どもたちは、よく縁へ向かいます。
広い道の真ん中ではなく、縁石の上を歩く。
広い床ではなく、一本の線をたどる。
柵があれば、その向こうをのぞく。
穴があれば、手を入れようとする。
暗い場所があれば、顔を近づける。
高い場所があれば、登って下を見る。
身体を使う冒険だけではありません。
初めて会った人に話しかける。
みんなと違う答えを口にする。
できそうにないことを「やる」と言い張る。
大人から見れば、
不安定な方へ進んでいるように見えます。
真ん中を歩けばいいのに。
そこで遊べばいいのに。
どうして、その先を見たがるのだろう。
けれど、
安定した中心にいるだけでは、
世界の形は見えにくいのかも。
縁に立つと、
「ここまで」と「ここから先」が現れます。
ここまでは平ら。
ここからは段差。
ここまでは届く。
この先は届かない。
ここまでは平気。
ここからは怖い。
世界に線が引かれます。
そして、
世界の形がはっきりすると、
自分の身体もはっきりします。
足に力を入れている自分。
息を止めている自分。
怖がっている自分。
それでも、
もう少し先を見たい自分。
世界の縁では、
世界と自分が同時に立ち上がります。
変身は、縁から始まる
おそらく、変身とは、
自分ではない何かになることではありません。
いつもは、ぼんやりしている自分が、
世界のなかに強く現れることに思えます。
進むのか。
戻るのか。
触るのか。
やめるのか。
誰かに決めてもらうのではなく、
自分の身体で引き受ける。
滑り台の上に立った子どもが求めていたのも、
そういう感覚だったのかもしれません。
中心にいるだけでは起きないことを起こす。
世界を揺らし、
その揺れのなかに、自分という存在を現す。
そのためには、
ギリギリの場所が必要だった。
変身は、世界の縁から始まります。
冒険と探検の根っこにあるもの
知らない場所へ行けば、
いつもの見方が通用しなくなります。
暗い。
狭い。
遠い。
聞いたことのない音がする。
初めて会う人がいる。
そこで子どもは、
目を凝らし、耳を澄まし、
身体の使い方を変えます。
世界が急に具体的になります。
感覚センサーが急に起動します。
自分が何を怖がるのか。
何に惹かれるのか。
どこまで進みたいのか。
どこで引き返したいのか。
それまで曖昧だった自分も、
少しずつ見えてきます。
子どもは、冒険をしながら、
その都度、自分をつくり直しています。
ここまではできた。
これは怖かった。
次は、もう少し進みたい。
これは、もうやめておこう。
縁に立つたびに、
世界と自分の輪郭を更新していきます。
私たちが旅に出る理由
考えてみれば、
大人も、よく似たことをしています。
知らない街へ行く。
初めての仕事をする。
いつもの人間関係から離れる。
異なる文化や考え方に触れる。
なぜ、
わざわざ慣れた場所を離れるのでしょう。
旅や移動には、
一つの働きがあるように思います。
慣れすぎて見えなくなった日常を、
もう一度立ち上げることです。
知らない駅で出口を探す。
読めない表示の前で立ち止まる。
初めての店で、周囲を見ながら注文する。
遠く離れた場所から、暮らしを思い出す。
いつもは意識せずに済ませていたことが、
急に具体的になります。
自分は何を怖がるのか。
何に惹かれるのか。
どちらへ進みたいのか。
何を大切にして暮らしていたのか。
知らない世界の縁に立つことで、
ぼんやりしていた日常と自分の輪郭が、
もう一度はっきりします。
そう考えると、
私たちが旅に出る姿と、
滑り台の上に立った子どもは、
それほど違わないのかもしれません。
大人は飛行機や電車に乗り、
子どもは滑り台の上へ登る。
方法はずいぶん違います。
けれど、
慣れた中心から少し離れて、
知らない世界の縁に立ち、
そこで自分を感じ直そうとする。
その衝動は、よく似ています。
幼児期は続くよどこまでも。
それは、大人のなかに幼さが残っている、
という意味ではありません。
世界の縁へ向かい、冒険と探検を通して、
日常と自分を立ち上げ直す力が、
私たちのなかにも続いているということです。
旅とは、その力をもう一度動かす、
小さな変身の儀式なのかもしれません。
そう思うと、少し可笑しくなります。
私たち大人は
立派な理由をつけて遠くへ出かけますが、
やっていることは、
滑り台の子どもとさほど変わらないのかも笑
あの子の、飛び降り事件に戻ってみます。
世界の縁に立って、
いつもの日常を起動させようとした。
その世界のなかに現れる自分を、
確かめようとしていた。
「変身したかった」
その子の短い言葉には、
冒険と探検の根っこにあるチカラが、
思いのほか正確に表れていたように感じます。
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