子どもが「おんなじではない」と主張する理由

子ども

「同じでしょ?」が通じない理由
分類する大人、採集する子ども

机の上に、赤いいちごのおもちゃと、
赤い消防車のミニカーが並んでいます。

私は何の気なしに言いました。
「見て、どっちも赤だねえ。おんなじ赤だ」

目の前の子が、真顔で返します。
「ちがう」

いえいえ、と私は食い下がります。
分類は、いわば私の商売です。
ここで引くわけにはいきません。

「同じ赤だよ。ほら、こっちも赤、こっちも赤」
「ちがうもん」
「…どこが?」
「ぜんぜん、ちがう」

完敗です。
理由すら、教えてもらえません。

どちらも分けている。軸が違うだけ

大人になると、
私たちは世界を「コトバ」で分けます。

赤いいちごも、赤い消防車も、
頭のなかでは「赤」というラベルの箱に、
すとんと入る。
だから「同じ」。
コップが10個あっても、
色や形がどれだけ違っても、
「コップ」という名前さえ同じなら、
私たちは平気で
「全部おんなじ」と言えてしまいます。

これは、とても便利な能力です。
世界を、素早く片づけられる。

いっぽう、
子どもはまだ、その箱をあまり持っていません。

彼らが世界を分ける軸は、
まだ、名前だけではありません。
手ざわり。舌ざわり。あたたかさ。
ぴかぴか具合。「ぼくの」かどうか。
もっと生々しい、カラダで感じたなにか。

だから、
子どもの「ちがう」は、雑なわけでも、
分類ができていないわけでもありません。

大人とは違う軸で、ちゃんと分けている。
ただ、それだけのことなのです。

子どもは、世界を「採集」している

私はこう考えるようになりました。

「観察する」「体験する」「感じる」ではなく、
子どもたちは「採集する」

大人がラベルを貼って棚に整理するのに対して、
子どもは、一つひとつを手で拾って、
カゴに集めていく。
名前でまとめたりはしません。
全部が、単独の獲物です。

だから、いちごの赤と、消防車の赤は、
まったく別の獲物なんです。
片方は、ころんと甘そうな赤。
もう片方は、ぶーんと走っていきそうな赤。
カゴのなかで隣り合うことはあっても、
溶け合って「赤」というひとつになることは、
ありません。

散歩の帰りに、
ポケットいっぱいに詰めこんできた、
どんぐりや小石。

大人の目には、どれも似たような茶色い塊…
「これ、ぜんぶ、いる?」と
つい言ってしまうアレです。

でも、
子どもにとっては、その一つひとつが、
拾った瞬間の記憶ごと、別の宝物なんです。

カゴのなかで
「どんぐり」というひとくくりには、
けっしてなっていません。
あるのは、あのとき見つけたコレと、
そのとき見つけたソレ。
全部、名前のない、単独の宝物です。

白状します。 時として、私の仕事は
「ちがう」を「同じ」にすることです

セラピストである私の仕事は、
いってみれば、
この「採集カゴ」をのぞき込んで、
中身に名前をつけていく作業です。

子どもたちの無数の「ちがう」を回収して、
「これは○○という状態です」
「こういう発達の段階です」と、
「同じ」の箱に入れていく。

それで、お給料をいただいています(汗)

つまりセラピストの私は、
「おんなじでしょ?」を、
いちばん熱心に言ってしまう側の
ボスキャラにもなりやすい。

…と書くと、こう言われそうです。

「いや、子どもだって”わんわん”で、
 犬もネコも馬もまとめるじゃないか」と。

おっしゃるとおり。
子どもは、盛大に「同じ」にします。

でも、あのときの「同じ」は、
もふもふして四本足の、あったかいやつ…
という、カラダで感じた「同じ」。
私たちが仕事でやっている
分類上のルールでの「同じ」とは、
まとめている軸が、やっぱり違うのです。

子どもはこの世界をカラダで採集し、
大人はこの世界を名前で整理する。

私は、その名前をつけるプロとして、
せっせと箱を作っている、というわけです。

報告書に一つ、名前を書きこむたびに、
私はカゴのふたを、そっと閉めている——
正直に言えば、
そんな気がすることもあります。

幼児も、大人たちも
「体験価値」のセンスを磨く

名前をつけ、整理し、わかりやすく説明する。
このチカラを重んじてきたのは、
子ども相手のときだけではありません。
大人は、大人同士でも、
それを長らく価値としてきました。

少し前から、SNSを眺めていると、
「言語化」という流行りのことばを、
やたらと見かけた時期があります。

あの感情を、この気づきを、
いかに切れ味よくコトバにするか。
うまく言い表せる人が、知的でかっこいい。
そんな空気を、
私はたしかに感じていた気がします。

ところが、AIがやってきます。

いまや、たいていの知識は、
AIさんにお願いすればすらすらと、
きれいなコトバになって出てきます。
「言いあらわす」ことのありがたみが、
ほんの少しだけ目減りした?
少なくとも、そんな気持ちにはなれる時代です。

すると今度は、
逆の声が聞こえはじめた気がします。

「知識より、体験だ」
「コトバにできないものにこそ、価値がある」
いわば、「非・言語化」のススメ。

でも、
どこかで見た光景ではありませんか。

大人がいま「体験価値」を言い出しているのは、
ぐるっと大回りして、あの採集のカゴを、
もう一度のぞきに行くことなのかもしれません。

子どもたちが、とっくの昔から、
達人としてやっていたことです。

私たち大人の中にある、
急いで「同じ」を作りたい衝動

ときどき、ふと思うのです。
「わかった?」「おんなじでしょ?」
そんな声かけは、便利だけれど、
子どものカゴに、私たち大人の箱を
上書きする作業でもあるのかもしれない。

いちごの「赤」が、消防車の「赤」と、
ちゃんと”別物”でいられる時間は、
たぶん、そんなに長くありません。

急がなくても、いいのかもしれない。
そんなふうにも思うのです。

後日、
また似たような場面がありました。

子どもが、
二つの赤いモノを前に、
「ちがう」と言い張ります。
私は「おんなじでしょ」を、
飲み込みました。
そして、言ってみたのです。

「ほんとだ。ちがうね」

子どもは、満足そうな顔です。

そのとき私は、
たぶんほんの少しだけ、
名前をつける手を止めています。
ふたを閉じるのをやめて、
カゴのなかを、ただ一緒にのぞきこむように。

分類のプロを看板にする私たち大人が、
子どもたちの採集に、
ほんの少し近づけた日のはなしです。

つい名前をつけたくなるけれど…
また今度でも、いいのかも。

 

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