設計図を、そっと見学してみる
「うちの子、好き嫌いが多くて」
そう聞くと、多くの大人は
“わがまま”や”経験不足”を思い浮かべます。
でも、
その「好き嫌い」を近くで見ていると
いいかげんに選んでいるのではなく
驚くほど緻密なルールで
選んでいることにも気づきます。
まるで、
頭の中に一枚の設計図があるみたいに。
——その話をする前に、少しだけ。
「なんとか、もう一口だけ食べてね」
そう願ったことのある大人は
きっと、たくさんいると思います。
食事の時間
みんなが食べているのに
その子のスプーンだけが、止まっている。
保育園や幼稚園で
毎日向き合っている先生方の熱意には
いつも頭が下がります。
なんとかもう一口を、と工夫を凝らし
彩りを変え、声をかけて
少しでも食べられるものを増やしてあげたい。
栄養士さんや保育士さんの
あの真剣さと優しさは
まぎれもなく子どもへの愛情です。
その現場で、
よく共有される考え方があります。
「幼児はまだ未熟だから、食わず嫌いが起きる。
まだ経験が足りない分については、
私たち大人が、補ってあげればいい」
これは、とても正しい。
実際、経験を重ねるうちに、
食べられるようになる子はたくさんいます。
ただ、私はここにもうひとつの見方を、
そっと重ねてみたいのです。
「未知」をからだに入れる挑戦
たくさんのお子さんを見てきて
思うことがあります。
幼児期の「偏食」の動機の奥には
「不安」が隠れていることが、多いのです。
食べたことのないもの。
見た目が、いつもと違うもの。
口に入れたあと
どんな感触になるのか、わからないもの。
考えてみれば、食べるというのは
未知のものを自分のからだへ入れる行為です。
これほど無防備なことも、そうそうありません。
だから、
不安の強いお子さんほど、その未知を、
少しでも予測できるものにしようとします。
偏食は、「欠けている」しるしではないのです。
むしろ、
その子が、こわい世界を安全に生きるために
食べる/食べないを決める設計図を作成し、
頭の中で「防御のお城」を
けんめいに建てているイメージです。
「お城」をそっと見学しに行く
その子が、さまざまな不安から
頭の中で建築している「お城」を
私は、こわしません。
拒否されないように、
建物に、そっと入っていく。
何も動かさず、城内を静かに見学して
設計の意図を模写して
そっと戻ってくる。
探しているのは、たったひとつ。
どんなときに「危ない!」の警報が鳴り、
どんなときなら、鳴らずに済むのか。
この、警報が鳴る条件と、鳴らない条件を
ていねいに読み解いていく作業は、
正直に言うと、探検のような面白さです。
「困りごと」として眺めていた偏食が
「その子が暮らす世界」を読み解くための
手がかりに変わっていきます。
偏食は「直すべき困りごと」から、
「読み解く楽しみのある設計図」に、
すこしずつ変わっていきます。
「大丈夫だった」体験は、宝物
その設計図には、あるパターンがあります。
一度でも
「食べても大丈夫だった」という経験ができると、
子どもは、そのときの状況を
子どもなりに想像して、ルール化するのです。
たとえば、
大好きなお友達が、となりにいた。
いつもの場所だった。
決まった時間だった。
見慣れた、あのお皿に入っていた。
そして、
そのわずかな成功をもう一度起こすために
子どもは自分なりのルールをつくります。
大人から見れば、
屁理屈で、意味不明な、
頑固なこだわりに見えるかもしれません。
でも、それは、わがままではありません。
不安の大きい世界を安全に生きるために、
子どもがけんめいに作る仕組みなのです。
なかには、「安全」を、
食べ物ではなく人に預けている子もいます。
大好きなあの子が食べていれば、大丈夫。
でも、その子がいない日は、どうしても無理。
ひとりで世界の安全を判定しきれないぶん、
信頼できる誰かを足場にして建てている。
そう思うと、その不合理な頑固さが、
ずいぶん健気なものに見えてきませんか。
足場を、急に取り払わない
だから私は、その足場を、
いきなり蹴り飛ばさないようにしています。
「このお皿じゃなくても、食べられるでしょう」
「昨日は食べられたんだから、今日も大丈夫」
「お友達がいなくたって、同じでしょう」
こういう言葉は、正しく聞こえて、
じつは、子どもが必死で組んだ足場を、
足元から急に外してしまいます。
まず、するのは、その反対のことです。
どんな条件が、
その子の安心を支えているのかを理解して、
その工夫と努力を、ちゃんと認める。
壊すのではなく、
認めるところから、始めます。
すこしだけ、力を抜いてみる
大人になっても
理屈では説明できない偏食を抱えている人は
たくさんいます。
どうしても食べられないものが
ひとつやふたつあることは、ふつうかも。
でも、その多くは、困っていません。
食べられないまま、
じゅうぶん健やかに暮らしています。
だから、子育ての目標は
「偏食をゼロにすること」ではないと思います。
大事な問いは、「全部食べられるか」ではなく、
「この子は、これでどれくらい困っているか」
大人の心配ではなく、
子ども自身の「お困り感」の質が
子育ての方針を決めてくれます。
自分で決めてチャレンジする価値
もちろん、これは
「放っておけばいい」という話ではありません。
不安がやわらいでくると、
子どもは、すこしずつ、
自分から受け取れるようになります。
いつものお皿でなら、
違う場所でも大丈夫かもしれない。
好きなお友達と一緒なら、
初めての料理に、触れてみられるかもしれない。
食べるのはまだ難しくても、
匂いを確かめることなら、できるかもしれない。
こんなふうに、安心を足場にして、
世界のほうを、そっと広げていく。
子育て中の大人が目指すのは、
子どもに食べさせることではありません。
安心できる条件が整ったうえで、
子ども自身が
「ちょっと、食べてみようかな」
自分でタイミングを決められること。
無理に入れられた一口ではなく、
その子が自分自身で選んだ、一口
いちばんうれしいのは、その瞬間です。
共感と知的な好奇心のスキル
こうして考えていくと、
偏食への対応は
苦手な食べ物を克服させるための
技術ではありません。
それはむしろ、
子どもの「不安」の正体と
その不安に立ち向かおうとする工夫を
大人が「読みとる技術」なのだと思います。
お皿の上に残された、あの一品
それは、大人を困らせる問題ではなくて、
その子が広げて見せてくれた
小さな設計図なのかもしれません。
なぜ、これはよくて、これはダメなんだろう。
この子は、いったい、頭の中で
どんな世界を建てているんだろう。
そう思って眺めると
「食べない」が、ぐっと面白くなってきます。
その知的好奇心こそが、たぶん、
子どもをいちばん深く理解する入り口です。
そしてそれは、
いちばん子どもを追い詰めない
やさしい入り口でもあるのです。
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